殿様千石たこ道中小説


三匹が斬る!外伝 第四幕


 日が昇り、江戸の町人達がそれぞれの仕事に取り掛かり始めた頃、 黒い着物に身を包んだひとりの浪人が江戸の街を駆け抜けていた。 番頭が店の前に水を打ち、魚屋が桶を担いで通りを行き来する合間を縫って 浪人は全力で走り続けた。 武家屋敷が並ぶ一角に差し掛かったとき、 浪人、千石は一瞬ちらっと道端に目をやると、またすぐに走り出した。 そこはかつて、千石が養父を守るために、友を自らの手で斬った場所であり、 彼が武士としての自分を見つめなおす旅に出るきっかけとなった場所である。 「もう、御免だ。友を失うのは…間に合わないのは…何もできないのは!」 千石はまた速度をあげて走り出した。  お蝶が働いている芝居小屋に飛び込んだ千石は、 4日前に訪れたばかりの部屋の襖を開けた。 「右近…右近!」 千石は部屋に飛び込むと、中央の布団に寝かされていた男の枕元に駆け寄った。 「待って、千石さん。動かしちゃ駄目」 お蝶が慌ててその手を遮る。 「お蝶、右近は無事なのか?!」 千石は眉間に皺を刻みながら、お蝶に尋ねた。 「もう2日の間、寝たままよ。お医者さんが言うには、本人の生命力次第ですって」 「…右近がそう簡単にくたばるか。大丈夫だ、きっと大丈夫だ!」 千石はここでようやく息を整えた。 全速力で走ってきた疲れが身体を襲い、身体中からどっと汗が噴き出した。 「今朝、陣之介君が訪ねて行ったでしょ。千石さん、ここまで走ってきたの?」 「ああ、右近が斬られて、ここに寝かされてると聞いて…飛び出してきた」 お蝶が布を手渡すと、千石が汗を拭きながら答えた。 「…そうだ、何故こいつがここで寝ている?  こいつの屋敷では今、葬式をやってるぞ。それに街中の立て札は…」 「やっぱり、話を最後まで聞いて来なかったのね」 さらに別の質問を切り出そうとする千石の言葉をを遮り、お蝶が説明を始めた。  繊細な刺繍の施された布を懐に突っ込んで汗を拭きながら、千石は耳を傾けた。 「右近さんを死んだことにしたのは陣之介君よ。  生きてると分かれば、また命を狙われるかもしれないからって」 右近が斬られた夜、陣之介は医者を呼んで右近に応急処置を施すと、 特務奉行専属の忍に命じて、右近が死んだという偽の情報を流した。 そして密かに右近をお蝶の芝居小屋に運び入れると、千石のもとに向かったのである。 「では、殿様が右近を斬ったっていうのも陣之介が?」 「ううん、それは違うわ。その立て札は目付の鷲尾っていう男が立てさせたの」 「鷲尾だと?!くそっ、やっぱりあいつが!」 千石は刀の鍔に手を掛け、立ち上がろうとした。 「何をする気?鷲尾は江戸城の中よ。そう簡単に手は出せないわ」 お蝶が千石の腕に手を伸ばし、止めようとする。 「…ああ、分かっている。  だが直接手を下した者がいるはずだ。右近を斬るほどの腕をもった者が…。  お蝶、下手人について何か聞いてないか?」 「…これを、陣之介君が」 お蝶が横に置いてあった風呂敷をそっと広げると、中から折れた剣の刃が現れた。 「こ、これは…。まさか、あいつらか!」 その刃を目にした千石の顔色が変わり、お蝶がとめる間もなく外に飛び出した。 「わ、千石さん?!」 千石を追って走ってきた陣之介を弾き飛ばし、千石は芝居小屋の外に走り出た。 「お蝶さん、千石さんは何処に?!」 「たぶん、4日前と同じ村よ。陣之介君、追って!」 それを聞いた陣之介は、慌てて外に飛び出した。 じつは今朝、陣之介が千石のもとに向かったのは 右近の警護を千石に依頼するためである。 この事件にメリケンの人間が関わっていると判断した陣之介は、 特務奉行の代理として町方よりも早く動いて下手人の情報をつかむため、 その間の右近の警護を、千石に依頼しようとしたのである。 陣之介の誤算は、旅から戻って長い年月が経ち、覇気の薄れていた千石からは 彼の無鉄砲さを十分に読み取れていなかったことである。  陣之介が4日前と同じ竹やぶにたどり着いたとき、 辺り一面に金髪の男達が倒れていた。 「…千石さん」 視線の先、肩で息を切らしながら刀を構えた千石の背中と、 それを取り囲んで隙を窺がっているメリケンの男達が見えた。 男たちは皆、剣を手にしていた。 右近が斬られた場所に落ちていたのと同じ、細身の剣である。 千石は全て峰打ちにしているらしいが、 ほとんど手加減はしていないらしく、倒れた男達は皆、戦闘不能に陥っている。 一方の千石自身は、身体に無数のかすり傷を負っていた。 慣れないメリケンの武器との戦いに、冷静さを欠いた千石は間合いを掴み損ねていた。 「はぁ、はぁ、少しはやるじゃねえか。どうした、もう終わりか?!」 濡れた髪を額に張りつかせ、千石は鋭い眼光を前方に向けた。 「もう、それぐらいでお帰りください」 取り巻いていた男達の後ろから、ひとりの男が進み出た。 「貴様、たしか…サブ…とか言ったな!」 千石は沈みかけていた身体を起こすと、珍しく刀を正眼に構えた。 「サブリーダーのリューズです。ご用件をお伺いしましょうか」 リューズは剣を収め、戦闘の意思の無いことを示した。 「いいだろう。だが、そっちのお仲間は剣を構えたままだからな。  俺はこのまま話させてもらう」 千石は刀を下げた。 「あなたが聞きたいことはこちらも察しがつきます。  ですが、特務奉行を斬ったのは私達ではありません」 「そうか、だが…何か知っているだろう」 千石は探るような眼差しを向けた。 「ええ、まあ。ですが、今あなたにそれを言うわけにはいきません」 「…何故だ」 千石は刀を握る手に力を込めた。 「我々は、おそらくあなたとの共通の敵のもとにスパイ…探索を入れています。  今、あなたに斬り込まれて事態をかき回されるのは困るのです」 「なるほどな。では、その探索方に引き上げるように伝えろ」 「それはできません」 「お主では話にならん。大将を出せ」 千石は汗で濡れた髪を掻きあげると、前に進もうとした。 「ここにはいないと言ったはずです。そして、通るなら力ずくで…とも言いました」 リューズはそう言うと、腰の剣を抜いた。 「いいだろう。先に斬りかかってきたのはお主たちだ。  斬るつもりはなかったが、お主を相手に手加減するとこっちが危なくなりそうだ」 千石は刀の刃を返し、刃のほうを相手に向けた。 「せ、千石さん!」 陣之介が慌てて止めに入る。 「来るな!陣之介、今の俺に触れればお主であろうとも、斬る」 千石は振り返ることなく、冷淡な口調でそう言い放った。 リューズは剣を前に出して間合いを測りながら、一歩踏み出した。 一方の千石は相手の死角を探ろうと真横に移動する。 お互い、勝負は最初の一太刀で決まることを感じていた。 千石が一歩踏み出し、自分の間合いを取ろうとしたその時、 「そこまでだ、千石!」 と、男達の背後から、よく通る大きな声が響いた。 「!」 千石は勝負を忘れ、カッと見開いた目をそちらに向けた。 千石の視線の先、そこには一人の長身の浪人、殿様こと矢坂平四郎の姿があった。  「と、殿様…か?!」 千石はまるで幽霊でも見たかのように驚きの表情を張り付かせていた。 4日前には平四郎を探してここを訪れ、ここ数日で何度も耳にした名前である。 しかし実際に本人を目の前にすると、身体中の怒りと懐かしさとその他の感情が入り混じり、 一体自分が何のために平四郎に会おうとしていたのかさえ曖昧になっていた。 「そうだ、殿様。右近のこと、知ってるか」 千石はやっとのことで喉から声を絞り出した。 「ああ」 平四郎の答えは一言だったが、その中には様々な感情が含まれ、重かった。 「お…そうか。よし、右近の仇を討とう。そうだ、タコも呼んで。俺たちで…」 どこかぎこちない笑みを浮かべながら、千石は早口で捲し立てた。 「待て、千石」 「ん?」 平四郎の答えは、千石が予想しつつも頭の中から故意に排除しようとしたものだった。 「今はまだ、その時ではない」 平四郎は眉間に皺を刻みながら、千石の目を真っ直ぐに見て答えた。 「おい、何を言ってるんだ、殿様。斬られたんだぞ、右近が!」 千石は不快を顕わにし、全身を使って訴えた。 「俺たちはまだ、メリケンの組織の全容が掴めていない。阿片、鉄砲、人買い…。  敵はあまりに強大だ。ここで俺たちが斬り込んだところで…」 「何を言ってやがる!俺たちは今まで、ずっとそうしてきたじゃねえか。  刀一本で。一体何だ。何に怯えているんだ。殿様、お主は…?」 「千石、俺たち浪人三匹が、冷静さを欠いた状態で乗り込んで勝てる相手ではない」 「じゃあどうしろってんだ。友の仇を討たないのか?」 「まずは相手の出方を見る。そして、阿片や人買いの根元から断たねばならぬ。  目先の仇を討ったところで、この国やメリケンで悲劇が繰り返されることになる」 「貴様、こいつらのお山の大将きどりか。仲間の仇も討てずに何がこの国だ、メリケンだ!」 千石は怒りを顕わにした。 「千石、この者達は力なき者とは違う。  共に国を創っていく仲間だ。俺達だけの力でできることなど限られているのだ」 「つまらぬな。それが、貴様がメリケンという国で悟ったことか。  今の俺にはこの国など関係ない。俺はただ、友の仇を討つ!  俺が貴様と別れて悟ったこと、それは、『食いたいときに食い、寝たいときに寝る』。  俺の信じた道を阻むものは、たとえ殿様、お主であろうとも斬る!」 千石は刀を構えた。 「はっはっは。じつにお主らしいな」 殿様は軽く笑った後、刀を抜いた。その目はもう少しも笑っていなかった。  一体どうしてこうなったのか、自分はどうしたらいいのか、 陣之介にそれを考えている余裕はなかった。 全く自然に、まるで酒でも酌み交わすかのように刀を交えようとするふたり。 だがそのふたりの気迫は手加減などする余地が無いことを物語っていた。 千石の気迫は周囲の全てを飲み込もうとするが、平四郎は全く動じていなかった。 「殿様ぁ、俺は今日、自分が仕官せずに浪人のままでいてよかったと思っている。  何者にも縛られず、お主とこうして刀を交えることができる」 理屈ではない。ただ、時の流れを互いの剣で確かめようとしているようだった。 ジャッ! 先に地を蹴ったのは千石だった。 鋭い振り下ろしが平四郎の身体の中心に向けて放たれた。 それを平四郎は避けずに正面で受け止めた。 ギンッ!という刃を交える音が響いた。 呼吸を置くことなく、千石の鋭い胴払いが平四郎を襲う。 それもまた平四郎が受け止めると、再びギンッ!という鈍い音が響いた。 その瞬間、それまでかすり傷と思われた千石の全身の傷口から血が噴出した。 「くっ」 千石は一歩後退し、間合いを取り直した。 その隙を、平四郎は見逃さなかった。 鋭い突きが千石を襲う。 千石は素早くそれを払ったが、 その後の平四郎の刀さばきは、まるで舞いを踊っているようだった。 長い刀が弧を描き、千石の右肩に向けて袈裟懸けに振り下ろされた。 千石がそれを払おうと刀を振り上げたとき、平四郎の刀がヒュッと軌道を変えた。 「何?!」 千石はその動きに対応できず、刀は大きく空を斬った。 「やはり、お主はいつもの冷静さを欠いている」 そう言った平四郎の切っ先が千石の額に向けられた。 「おのれ!」 千石は大きく斜め後方に飛んだ。 「千石…」 「貴様、やはり甘い男だ。だが、剣に曇りはない」 千石は刀を鞘に納めた。 ほっと胸を撫で下ろす陣之介だったが、次の瞬間、その期待は脆くも崩れ去った。 千石が居合の構えを取ったのである。 「次の一撃で終わりだ」 一方の平四郎は、刀を正眼に構えたまま微動だにしなかった。 「行くぞ」 千石がジリッと間合いを詰める。 もはやそれは、いつもの千石ではなかった。 まるで…。  陣之介はこの無意味な争いを止める術を知らなかった。 リューズも、周りを囲む男達も、小屋の前に出てきてこちらを窺がっている少女も、 この場にいない誰であろうとも、この戦いを止めることはできないのではないか。 いや、ひとり。 陣之介の脳裏にその男の顔が浮かんだとき、 ヒュッという音と共に平四郎と千石の目の前を何かが横切った。 「?!」 その場にいた誰もが、その物体に目をやる。 傍の木の幹に突き刺さったそれを見た平四郎と千石は、同時に声をあげた。 「か、風車だと?」 それはまぎれもなく、真っ赤な風車だった。 一瞬の沈黙の後、一同はそれが飛んできた方向を見上げた。 その木の上には、その場の緊張には全く似つかわしくない、真ん丸い顔の男がいた。 「一回、やってみたかったんだ」 その男、燕陣内は自分が飛ばした風車を指差して微笑んだ。 第五幕に続く


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