殿様千石たこ道中小説


三匹が斬る!外伝 第三幕


 その日は朝から濃い霧が立ち込めていた。 江戸の外れ、人家もほとんどない農道を、笠で顔半分を隠した修験者が歩いている。 ふと修験者が歩みを止め、道の端に目をやった。 そこにはひとりの赤ん坊が布に包まれ、捨てられていた。 赤ん坊はもう泣く力も残っていないらしく、笠で隠れた修験者の顔をじっと見ていた。 修験者は何も言わず、その赤ん坊を抱きかかえた。 ボロボロの着物とは不釣合いに、その腕は太く筋肉質であった。 「…男か」 修験者から発せられた声は低く、重かった。 この時代、貧しい農家では子供を捨てることは珍しくない。 しかし、そんな捨て子を拾って育てようなどという者はほとんどいない。 修験者は子供を抱きかかえると、また歩みを進めた。 と、しばらくすると修験者の背後にひとつの黒い影が降り立った。 「幻狼様、鷲尾殿がお呼びでございます」 黒い影は片膝を付き、小声でそう告げた。 「…わかった。これは我らの新しい同志だ、壊さぬようにな」 修験者は赤ん坊を「黒い影」に渡すと、また何事もなかったかのように歩みを進めた。  「チッ」  江戸城の廊下を歩いていた鷲尾主膳は、前から来る人影が目に入ると舌打ちした。 前から来るのは吉良右近。 彼は今、幕府の不正に絡む事件のみを対象とする特務奉行の地位にある。 「これはこれは鷲尾殿、お勤めご苦労にございます」 特務奉行は将軍直属の配下という位置付けにあるため、自由に江戸城に出入りできる。 「吉良殿こそ。最近は人買い事件の下手人を捕らえたとか。ご活躍は聞き及んでますぞ」 「ありがとうございます。  その件なのですが…事件を裏で動かしている者が幕府の中にいるようなのです」 その言葉を聞いた鷲尾の頬がわずかに強張った。 「ほう、それはそれは。で、吉良殿はもうその人物の目星は付いておられるのかな」 「いかにも。鷲尾殿、しっかりと首を洗って待っていてくだされ」 右近は皮肉を込めた笑顔でそう言うと、鷲尾の横を通り過ぎていった。 鷲尾主膳は大きく目を見開いたまま、その場で歩みを止めた。 「おのれ若僧が!調子に乗りおって…」 心の中でそう呟く鷲尾だったが、 目付である自分は立場上、特務奉行より低い地位にある。 無礼討ちにできないことは百も承知だが、鷲尾は怒りを静めることができなかった。 「吉良め、許さぬ」 遠ざかっていく右近の後姿を睨みつけると、刀の鍔に手をかけた。 「…鷲尾殿、殿中でござるぞ」 ふと、鷲尾の耳に何処からともなく低い声が響いてきた。 「そ、その声は幻狼か!さすがに早いな」 鷲尾自身、声が何処から響いてくるのか分からなかったが、とりあえず返事を返した。 「幻狼、早速仕事だ。お前の影部隊を使ってあの特務奉行を闇討ちしろ」 「クククク…あの程度の男に我が影を使うまでもありますまい。  特務奉行にふさわしい死に場所を用意させていただきましょうぞ」 地の底から響いてくるようなその低い笑い声に、鷲尾の背中にぞくっと悪寒が走った。  その夜。湿った風が微かに吹き、道の横を流れる堀の水にさざ波を立てた。 「右近様、出ましたよ」 籠の前方を担いでいた男が、籠の中の右近に囁いた。 「なんだ分かりやすい男だな、鷲尾は。もう来たか」 右近が籠を出ると、前方に笠で顔を隠したひとりの着流し姿の浪人風の男が立っていた。 右近は事前に籠持ちに「ここ数日のうちに刺客が現れるかもしれない。 怪しい男がいたら近づかないで俺に知らせろ」と言っておいたのである。 「よし、お前達は下がってろ」 右近がそう言うと、籠持ち達は足早にその場を離れて身を隠した。 「拙者を吉良右近と知ってのことか」 聞くまでもなかったが、一応は聞いておくのが礼儀である。 その言葉に、浪人風の男が笠を取った。 その顔を見た右近の顔が凍りつく。 「な、貴様、異国の人間か…!」 浪人の髪は月明かりを受けて金色に輝き、その瞳は深い蒼だった。 「弱ったなあ。黒幕の正体ぐらいは喋れるのかあ?」 右近の心の呟きが終わらないうちに、異国の「浪人」が地を蹴った。 右近に向かって走る男が抜き放った剣は、右近の刀よりも長くて細いものだった。 「貴様、流儀は何だ!」 右近も自分の刀を抜いて応戦する。 二人の剣が「キン」という金属音を立て、夜の闇に火花を散らした。 すかさず反撃に出ようとする右近だったが、 相手の素早い突きの連続攻撃の前に、自分の間合いを作ることができなかった。 身体の右半身を前に出して突きばかりする流派など、 右近はこれまで経験したことがないものである。 だが右近は冷静だった。 幼い頃から様々な道場で修業を積み、高名な流派の免許皆伝を会得してきた右近にとって、 一対一の勝負は負ける気がしなかった。 間髪をおかない突きの連続攻撃はなおも続けられる。 細身の剣から繰り出されるリーチの長い突きは、 まるで槍を相手にしているかのような錯覚を与える。 「ならば、間合いを壊すだけだ!」 右近は後方に飛び退き、空中で素早く刀を逆手に持ち代えると 一旦その刀を背中に引き、相手の突きに合わせて素早く斬りあげた。 「キン」という金属音が響き、細身の剣が真ん中で折れて宙を舞った。 馬庭念流太刀割りの秘伝。 相手の武器を破壊する右近の得意技のひとつである。 本来は様々な要因が絡み合わないと成功しない技だが、細身の剣は比較的容易に折れた。 「!」 驚きを隠せない男の胸元に、右近は刀を突きつけた。 「教えておいてやろう。日本刀はナタの強さとカミソリの切れ味をもっているのだ」 右近お得意の教養講座だが、この場合、相手は言葉を理解できるのだろうか。 「さて、死にたくなかったら貴様の雇い主の名前を教えてもらおうか」 右近の言葉が終わらないうちに、男は両手を腰に当て、二本の棒を引き抜いた。 「くっ!」 やむを得ず、右近はその刀を男の胸に突き当てた。 後味の悪さを感じながら刀を引き抜く右近だったが、そのとき信じられないことが起きた。 胸を貫かれた男が、常識では考えられない速さで右近に襲い掛かったのである。 「何?!」 男が握っている二本の棒は日本でいう十手のようなものだった。 ただ十手と大きく異なるのは、その先端が鋭く尖っているということである。 右手の「十手」で右近の刀を封じると、左手のそれを右近の右肩に突き刺した。 「ぐう!」 十手から刀を外して素早く切り払い、大きく背後に飛び退く右近だったが、 さらに間髪入れない攻撃が続けられた。 その動きはとても胸を貫かれた男の動きとは思われなかった。 「まさか、阿片か!」 人買い事件の裏で阿片がひそかに日本に持ち込まれているという噂はかねてからあった。 阿片を使った人間は痛みを忘れ、人間離れした動きをすることがあるという噂も。 しかし右近は目の前の相手がそうだとは夢にも思っていなかったのである。 そんなことが頭をよぎりながら、右近は片手で必死に攻撃を防いでいた。 幼い頃から様々な相手と戦ってきた右近だが、十手の二刀流など聞いたことがなかった。 だが右近は相手の太刀筋さえ見切れば反撃できる自信はおおいにあった。 基本に忠実な右近の剣術は、防御だけなら千石にも勝る。 が、 「何だ?!」 右近は一瞬、目の前が白くぼやけたことに気付いた。 先程から思うように反撃できない理由が肩の傷だけではないことも。 「痺れ薬?!」 右近はひとつの結論にたどり着いた。 「十手」の先端には痺れ薬が塗られていたのではないだろうか。 だとすると短期決着を付けざるを得ない。 右近は相手の十手二刀流の隙間を掻い潜り、男の右肩から斜めに刀を振り下ろした。 ズバッ! と、浅いながらも確実な手ごたえを感じた。 だがその捨て身の捨て身の攻撃にも、 男は何事もなかったかのように右近の左足に十手を突き刺した。 「ぐっ!」 再び後方に飛びのく右近だったが、 明らかに右手だけでなく左足も痺れてきたのが分かった。 「もはや、これまでか」 傷は相手のほうが遥かに深い。 しかし阿片という人知を超えた薬は右近に死を覚悟させた。 「千石、陣之介、後は頼んだぞ!」 右近は右足で大きく地を蹴ると、横を流れる堀に身を投げた。 ドボン! と大きな音とともに飛沫があがり、男の顔を濡らした。 しばらく堀の周りをうろうろしていた男だったが、 右近の死体があがってこないのを確信するとその場を立ち去った。 男が完全に見えなくなると、それまで物陰に隠れていたふたりの籠担ぎが飛び出してきた。 堀を覗き込んだ二人だったが、痺れた身体で飛び込んだ右近は一向に浮かんでこなかった。  「開けておくれよ、お玲さん。ねえ、ねえってばぁ!」 陽が昇り、通りにも人影が増えてきた頃、 大きな屋敷の勝手口に向かって丸顔の男が泣きついていた。 「まだ何もしてないじゃないか!こんなの詐欺だよ」 男の名前は燕陣内。陣之介の父親で、千石達からはタコと呼ばれていた。 彼は今、とある江戸家老の未亡人の元に通い詰めていた。 今日まで彼は未亡人の身の回りの世話、炊事、洗濯、いろいろな雑用をこなしてきた。 それもみんな、「手を握る」の先に進みたいが一心のことである。 そして今朝、決心をした彼はさらに小さな一歩を踏み出そうと未亡人に迫った。 途端に、大声をあげた未亡人によって集められた家の者達につまみ出されたのである。 「お玲さん、俺の気持ちは分かってたはずだろ!分かってて…」 さらに声をあげる陣内の横に、塀を飛び越えた彼の荷物がドサッと落ちてきた。 「…」 無言で荷物を見つめていた陣内だったが、荷物を両手で抱えると寂しそうにその場を離れた。 「はああ」 ため息混じりに歩いていると、広い道を塞ぐように人だかりができていた。 「ああもう、通れないじゃないか。何があるんだ」 ひとり呟いた陣内に気付いた人のよさそうな商人が、陣内に近づいてきた。 「なんでもね、メリケンの盗賊が江戸の近海で商船を襲ったらしいんですよ」 「へえ、そうなの」 「で、その頭目らしき男がトノサマっていう日本人らしいんです」 「へえ、そうなの」 「捕らえた人に幕府から10両の賞金が…」 「何、殿様?!」 「わ、あ、はい、そうです、トノサマです」 急に声を上げた陣内に、商人は驚いた。 陣内が慌てて立て札を見ると、矢坂平四郎−殿様そっくりの人相書きがあった。 「やっぱり。…殿様…メリケン…10両…うーん、殿様が10両か、まだちょっと安いな」 わざとらしく腕を組んで陣内が何か考え事をしていると、 人を掻き分けて役人がふたり、新たな立て札を持ってやってきた。 「トノサマが率いるメリケンの盗賊、今度は特務奉行である吉良右近様の命を奪った。  よって、トノサマを捕らえた者に与える賞金は30両に増やす。  また、江戸に隠れているメリケン人を捕らえたものには一人当たり賞金1両とする!」 役人のひとりが声を荒げると、辺りは騒然となった。 「殿様が右近を殺したって?!…これは何か裏があるな…」 最後の一匹、陣内は真剣な顔つきになると足早にその場を立ち去った。 各地に立てられた立て札は江戸じゅうに波紋を広げ、 今にもメリケン人狩りが行なわれそうな雰囲気となっていた。 第四幕に続く


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